私は「曖昧」という言葉が好きだ。
はじめにそんなことを言うと、いい加減なヤツだ、
と思われるだろう。典型的な日本人だ、とも。
でも、YesとNoの狭間だとか、
数字でいえば0と1の間とか、
割り切れない数だとか、
人間の感情にはそんなものがたくさん存在すると思う。
人は、特に恋をした人は、曖昧な感情であふれている。
人はあらゆることを決断して、結果を出して生きているのだと思う。
決断する一歩手前は少なからず、曖昧な状態を持っている。
みんな持っている。
曖昧であることは、そう、中途半端であることでもある。
そんな宙ぶらりんな状態では、自尊心が保てるはずもないし、
それがゆえに、他人を傷つけたりもするだろう。
だから、曖昧は嫌われる。
私だって曖昧な状態は嫌いだ。毅然としていたい。
それなのに、恋をした私はいつだって曖昧な感情であふれてしまう。
存在してしまうものは、認めてやるしかない。
だから私は、曖昧な状態も無視したくない。
営業成績の棒グラフみたいに、結果ばかり見なくてもいいではないか、と。
せめてプライベートの恋愛ぐらいは、
途中経過の曖昧なぶぶんも、認めてやらなきゃ、と。
せめて自分自身だけは、と。
あぶないのは、曖昧さに心地よさを憶えてしまうことだ。
曖昧中毒とでも言おうか。
お酒もタバコもほどほどなら、大して害を与えないが、
中毒となると話は別だ。中毒はやはり危険である。
ほどほどに。
などと言う言い方も、また曖昧。
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