恋をすると、ほんの些細な一言に、多大な意味を込めてしまう傾向がある。
それが、お互いの気持ちの証しのように。
ふたりの間で交わされる約束など、そういう役割があると思う。
約束ではない、普段交わされる何気ない一言が、
ふたりにとっては、何気なくない意味を持つ。
そしてそれは、双方でおなじだけの意味を共有していればいいのだが、
一方が過剰な意味を込め出したら、終わりは近い。
別れ際いつも「じゃあ、またな」と言う、男がいた。
いたって普通だけれど。
彼とは半年くらい付き合って、けっきょくフラれたのだが、
別れてからも私たちは偶に会っていた。
恋人でもない友達でもない、曖昧な関係を築くことになる。
二度と会えないことに比べればそれでもよかった。そのときは。
そんな私は、「じゃあ、またな」という言葉に、どれだけすくわれたことか。
ああ、また、会える。今日も最後ではない。
まるで、精神安定剤を貰っているようだった。
ところが、何度目だったろう。
いつものその言葉が突如、私に不安を抱かせる。
この「また」はいつまで続くのか、私はいつまでこれに縋って生きるのか、と。
彼にとっての「また」と、私にとっての「また」の、重さが完全に違っていた。
私が一方的に過剰な意味を込め、大切にお守りのように持っていたに過ぎない。
そう気づいてしまった私は、
みずからの空回り具合をとても滑稽に思えた。
けれど彼のその一言は、確かに、あの頃の私の精神安定剤だった。
そして曖昧に繋がっていたあの頃は、私にとって、
つかまり立ちする赤ん坊のような時期だった。
私がしっかり独り立ちするまでの。
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