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   もてない女   - Essay - vol.4  …by香月未央
   
   ■ ケチャップの憂鬱
 
ケチャップが原因で、恋をあきらめたことがある。
チューブに入っている時は、なんのことはない“ただのケチャップ”。だけど、一度チューブから出たケチャップは、大きな意味を持ってしまうことがあるのだ。

彼からの誘いは、いつも突然だった。私が夜、ひとり暮らしのワンルームでくつろいでいると、突然、電話が鳴り出す。
「近くにいるんだけど」
彼は、時々、私の部屋を訪れては、飲んで、自分の仕事の話を面白おかしく話してくれた。20歳の頃から会社を経営していたからだろうか。年下だったけど、ずいぶん大人びて見える人だった。

「写真を撮ろうよ」
ある夜、彼に提案してみた。
「いいよ」
お酒を飲み過ぎてHighになっていた私達は、モノクロのフィルムで何枚も写真を撮り合った。あかんべえをしたり、口に含んだお酒を天井に吹き出したりしながら、何枚も何枚も撮り合った。

最後の1枚を撮り終えると、彼はカメラからフィルムを抜き、
「持って帰るね」
と、ジャケットのポケットに入れてしまった。
「お願い、返して。写真は誰にも見せないから。彼女にも見せないから」
でも彼は、とうとうフィルムを返してはくれなかった。現像して、部屋の壁中に写真を貼ろうと思っていたのに。彼がいない時でも、彼を感じていたい。そのための写真だったのに。

彼には、同棲中の彼女がいた。きっと彼は“この写真をばらまかれたら、たまったもんじゃない”とでも思ったのだろう。もちろん私は、まったくそんな気はなかった。だいたい、彼の彼女の顔も、名前も、住んでいる場所も知らない。
私は、彼のプロフィールを、ほとんど知らなかった。
なかなかつながらない携帯電話の番号以外は。

彼はけして私を「好き」とは言わなかった。だから、私も言わなかった。
それでもいいと思っていた。だけど、その夜は、少しだけ心に寂しさがよぎった。いつもは忘れたふりをしていた“彼の彼女”の存在が、彼と私の間に、クリアに浮かび上がってしまったからだった。

それから数日後の日曜のこと。彼から電話があり、自由が丘のカフェで、彼とランチをすることになった。
私はスルスルとトマトソースのパスタを食べていたのだが、彼は、目の前のオムライスに、まったく手をつけようとしない。銀色のスプーンで、いたずらに卵の上のケチャップをいじっているだけなのだ。いつもは人1倍食べる彼なのに、なんだか様子がおかしい。

「どうしたの?」
「うん、胃の調子が悪くて」
そう言うと、スプーンをお皿のはじっこに置いて、温くなりかけたハイネケンをグイッと飲みほした。その時、気がついた。彼の唇のはしっこに、赤黒いものがついていることに。ケチャップだった。

そっか。彼は、自宅を出る前に、彼女とご飯を食べちゃったんだ。だから今、まったく食欲がないんだ。彼女は、何を作ってくれたんだろう。オムライスだろうか、ホットドッグだろうか…。彼の口元のケチャップを見ながらあれこれ考えているうちに、なんだか腹がたってきた。なんだよ、自分から誘ったくせに。ケチャップぐらい拭っておいでよ。そんな気持ちがつのってきて、私は、こう言ったのだった。

「ねえ、唇のはじっこ、ケチャップがついてるよ」
すると彼は、慌てて、ナプキンで口を拭いはじめた。
「なんだ、彼女が作ったご飯、食べてきちゃった?」
彼は、ケチャップを拭ったナプキンで額の汗を拭きながら、うつむいて、何もこたえられずにいる。図星だったのだ。

私は、彼のために料理をしたことは一度もなかった。彼女でもない自分が、家庭的な態度で彼に接することは、格好悪いような気がして、どうしてもできなかった。それでよかった。しかし、私は彼のケチャップを見て、“私の彼”が欲しくなってしまった。
彼には何も言わなかったけれど、あの日私は、自由が丘のカフェで、彼をあきらめようと決めたのだった。

それから数日後の夜。突然、彼が部屋の前までやってきた。酔っていた彼は、玄関の前で、入れてくれ、入れてくれ、と、騒いでいる。入れてあげようかと、心が揺らぐ。だけど、彼には“ケチャップの彼女”がいるのだ。このまま会い続けても、彼は“私の彼”にはならないのだ。
「お願いだから帰って」
ついに私は、大声で怒鳴ってしまった。しばしの沈黙の後、わかったよ、と、彼。その遠ざかる靴音に耳をすましながら、私は、ひとしきり泣いた。部屋のライトもつけずに、大声で泣いた。

チューブに入っている時は、なんのことはない“ただのケチャップ”。だけど、一度チューブから出たケチャップは、大きな意味を持ってしまうことがある。
私は、ケチャップのおかげで、ひとつの恋をあきらめることができたのだった。

 
【プロフィール】
香月未央(かづきみお)
ライター。女性誌を中心に執筆活動中。今回、なぜ自分は「男にもてない」
のかを分析したくなり、エッセイを書くことに。
   
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