今でも忘れられないあの声。それは、小林とのデート帰りに鳴った携帯。
「あなた、小林と付き合っているんでしょう?…私もよ」
くぐもった、しかし、ある揺るぎない意志を持った女の声がした。
有頂天な私に向けられた彼女の悪意。それはやがて大きな黒い闇となり私の持っている光という光を覆い尽くしていった。
彼女の電話は私だけにかけられていたものではなかったのだ。
次の日、隣のデスクに居たのは、私の知らない男だった。
姿は確かに小林その人なのだ。しかし、昨日までのあの笑顔は全くない。
冷めた視線は、私の存在を完全に否定し、話しかけることもない。
人がこれほどまでに一晩で変われるものなのだということに、心のどこかで感心している自分がおかしかった。
重い鉛のような脱力感をまとい、帰途についた私を、さらなる闇が襲ってきた。
鍵を開け、家に入る。まだ子供達は帰っていないはずだ。しかし玄関に夫の靴がある。単身赴任で電車で3時間かかる地に住み、平日居るはずない夫の靴がある。私は驚き、慌ててリビングに向かう。
「どうしたの?本社で用事でもあったの?」夫は黙ったまま、テレビを見ている。
「体調悪いの?」重ねて聞く私に、彼はこう言った。
「電話があった」
「え?誰から?」
「小林って男の女からだ。おまえ…。不倫、してるのか?」
押し殺した、怒りに満ちた彼の声。私は全てを理解した。彼女の電話で、夫は会社を早退し、単身赴任先からここまで飛んで帰ってきたのだ。
「……」。
私の無言を肯定と受け取った夫は突然に私を殴り、そのままどこかへ出ていった。
私は冷蔵庫にもたれ、床に落ちているほこりをただ、ぼーっと見ていた。
殴られた頬が熱かった…。
次の日、夫に言われるまでもなく、私は電話一本でパートを辞めた。
夫はといえば、数日間私を無視し、ある夜、突然に私を求めてきた。
そして、「もう、どうでもいい」そんな投げやりな気持ちで、人形のように抱かれる私を激しくなじり続けた。「俺を裏切りやがって!あいつとはどう、やっていたんだ?」
それからも、夫は何かある度に、ちくちくと嫌みを言い続けたが、日が経つにつれ、混沌とした空気の中でも、生活のリズムだけは元のペースに戻ってきた。
以前にも増して、厳しい精神状態の中で、日々の仕事のみを淡々とこなしながら、
私は、様々なことを考えた。
「どうして私はこんな辛い思いをしなくてはいけないの?」
「私のどこが悪かったの?」突然大泣きをしたり、物に当たってみたり。
まるで思い通りにならないことにイラだつ小さな子供のようだった。
しかし、その暗いトンネルは私が山を越えるために、絶対に通らなくてはいけない大切な道だったのだ。
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