「パートに出る」。断言する私に、夫はあからさまに不快な顔をした。
「家事や子供の世話は?」予想通りの返答に「私の心配は?」つい、聞いてしまいそうになったが「心療内科の先生に、外に出て、気分転換するように言われてるし、あなたに迷惑はかけないから」と押し切った。
そしてそれは、一人の男性との出逢いのきっかけとなった。
彼は、パート先の自動車販売店の営業マン。小林圭介、38歳。独身のせいか、年よりずっと若く見える。笑顔がさわやかな、感じのいい人だ。
最初のきっかけはこうだ。
小林が営業に出る時間、それがちょうど私のパート終了時間だった。
彼は、帰ろうとする私を呼び止め、小声で言った。
「…ちょっと、ケーキつきあってくれない?」
「はぁ?」
あまりの唐突さと、ケーキという意外な言葉に、吹き出してしまった。
「何ですか?ケーキって」
「俺、甘党で、この前から、ずっとケーキ食べたいんだけど、一人じゃちょっと…。
ね、おごるからさ」。
その無邪気さがかわいくて、「仕様がないですねぇ。1時間位しかないけど」
などと気軽に受けてしまった。
楽天的な彼は、悩みがちな私の心をぐいぐいと明るい方へ引っ張った。
「どうしてこのパートをはじめたの?」そう聞かれて「少しウツ気味で環境変えたかったんです。…なーんて。実は貧乏だからでーす」冗談めかして笑う私に、「でもさ、お陰で俺はケーキ友達ゲットだ。貧乏。バンザイ!」と冗談を返してくる。
その明るさに救われる想いがして、私はどんどんと彼に惹かれていった。
それから後は、階段を転げ落ちるボールのようだった。
仕事中にこっそり「今日、どう?」とケーキを食べる仕草をする彼。
私は「仕様がないなぁ…。またですかぁ?」と困った風を装う。しかし心の中には、嬉しさに小躍りしている自分が居るのだ。
彼と会う時間は徐々に増え、ケーキ友達が恋人になるのに時間はかからなかった。
私は夫の居ない平日、子供が眠った後にこっそり家を出て、彼とホテルで逢うようにさえなっていた。
「常識」そんな言葉さえも封印してしまう程、私は彼にのめり込んでいた。
していることの後ろめたさと反比例するように、明るくなっていく母の様子に子供達は嬉しそうだった。夫も、私の体調が目に見えて良くなるのと、家庭のことで一切、迷惑をかけなかったので文句は言わなかった。
「結局、自分に迷惑さえかからなければ、私の事なんてどうでもいいのだろう。」
そう思うと、私は一層、小林との関係に寄りかかりたい気持ちに駆られた。
罪悪感と高揚感。二つの間を私の心の振り子が行ったり来たりしていた。
―いつしか気がつくと、自律神経失調症の症状はほとんど出なくなっていた。
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